しじみの貝がら

テキトーブログでこんにちは

【レビュー】監督ルシール・アザリロヴィックの映画『エコール』:ルイス・キャロルのまなざし?

※ネタバレ注意※

 

 

ルシール・アザリロヴィックという映画監督を知っているでしょうか?ぼくは、彼女の監督作品である『エコール』と『エヴォリューション』という映画を見て以来、すっかりその世界観にハマりました(ウィキペディアによると、アザリロヴィックが監督を務める長編映画はこの2作のみのようです)。そこで、今回はかなり前にみたので断片的な記憶しか留めていませんが、それをもとに未だ自分に残り続ける印象を絞って綴っていきます。

ちなみに、アザリロヴィックの配偶者であるギャスパー・ノエも映画監督で、主題的には彼女と共通したものを取り扱っているように感じましたが、彼女とは真逆とも言える雰囲気が作品内に立ち込めています。両者の作品はともに典型的な「ハマる人はハマるし、ハマらない人はハマらない」、芸術志向の映画と言えるでしょう。ノエの監督作品についてはまた機会があれば触れていきたいと思います。

 

それで、この『エコール』という映画ですが、この映画は、何人もの年端の行かぬ少女たちが、森の中にひっそりと佇む洋館を舞台にバレエの稽古に取り組む様子を描いたものだと言えます。こう簡潔に表してしまうと、面白みも何もない(いや、実際盛り上がる場面は無くひたすら淡々としているのである意味でその通りで、そもそもそうした面白みをこの映画に求めるべきではないのかもしれません)ですが、比喩的・抽象的・曖昧で視聴者の想像力に多くを任せている描写が他の映画とは一線を画しており、さまざまな解釈を許す作品となっています。そこで今回は自分なりの解釈をしてみようと思い立ち本記事の執筆に至りました。

 

この映画に出てくる少女たちは小学校低学年くらいの年齢のころ、どこからともなく上述の洋館にやってきてバレエの稽古に励み、小学校高学年くらいの年齢でバレエの本番を行い、洋館のある森の外へおそらくバレリーナとして巣立っていきます。つまり、これは自分なりに解釈してみると、不安定で脆い存在としての少女は最初森の中で匿われて日々を過ごしており、そうした美しくも危うげな世界を監督は幻想的に描いています。が、そうした世界も成長とともに終わりへと向かいます。その証拠に、稽古を積み成長した少女たちは客にバレエを見せ、舞台という新たな世界へと歩みを進めています。しかも、決定的な出来事として、外の世界に出た(ヒロインのうちの一人の)少女は、街の噴水で少年と出会います(この映画で具体的な一人の男性として描かれるのは、最終盤に現れるこの少年だけだと記憶しています)。これはそのまま、異性との出会いという性のめざめを描いていると考えることができます。こうして少女は心身ともに成熟した女性へと向かうことになります。

この際ぼくが思ったのは、監督はこうした少女の成長を素直に喜んでいるのではなく、ある意味悲しんでいるのではないか、ということです。普通なら成長するというのは良いこと、喜ばしいことのように考えられるでしょうが、ここでは少女という二度と戻ることのできない状態やその日々を、懐かしさを伴って監督は回想しているのではないか、と思えてなりません。「あの頃は良かった」という美的に増長された懐古が、少女という存在を介して行われているというわけです。

(しかし、これはぼく自身が男性だからそう解釈しているのだという可能性があり、そうだとすると女性であるアザリロヴィック監督とは解釈を異にする可能性があります(既に言及している通り様々な解釈を認めるような描写なので、解釈を一致させる必要も無ければ、そもそも一致できる可能性すら無いのかもしれませんが)。ただしこの点に関して、情報源がウィキペディアであり信ぴょう性に欠け申し訳ないですが、「少女愛」という項目を見てみると少女愛の主体が女性である場合を「女性少女愛」と呼ぶことがあるようで、こうした言葉が存在すること自体、それに該当する女性が存在することを示しているのだと考えるならば、監督ももしかするとそれに当たる節があり、そうなれば、もしかするとぼくの読みと、それに続く次の結びつきも一つの可能性として考慮に入れても良いのかもしれません。)

 

そうして、この映画から以上の懐古をぼくに引き起こさせたわけですが、そうなるともう一つ心の中でこの映画とリンクさせずにはおけないことがあります。

それが、ルイス・キャロルです。ルイス・キャロルは『不思議の国のアリス』など一連のアリスシリーズで児童文学に新たな風を吹き込んだ人物として有名です。そのアリスシリーズに登場するアリスは実在するアリス・リデルという少女がモチーフとなっています。また、キャロルは少女たちの写真を撮影していたり、膨大な数の少女への手紙が送られていたりしたことが明らかとなっています(詳細は、写真については写真集がいくつも出されています。また、手紙については平凡社ライブラリー『少女への手紙』で確認できます)。さて、そこにキャロルに俗にいう「ロリコン」だとかそうでないとかの議論があるわけですが、本当のところどうなのかというのは、本人に尋ねてみないことには分からないでしょう。いや、本人に尋ねてみたところでどれだけ自覚的であったかは知れたことではありません。

ここで、この記事の主題である映画『エコール』に関係づけて言いたいのは、色々噂のあるキャロルですが、キャロルと『エコール』の、少女に対する眼差しには共通点があるのではないか、ということです。

本記事では前述の『少女への手紙』の訳者・解説者によるあとがき・解説から、『エコール』とルイス・キャロルの手紙との共通点をそれとなく指摘しておきたいと思います。

まず、『少女への手紙』の解説を手掛ける高橋宣也(p.247)によると、

「そんな殺伐とした言葉[ネット空間における思慮のない言葉などのこと、本記事執筆者注]が飛び交う、情の薄い人間関係の問題に最もさらされやすいのが「少女」という存在かもしれない。子供と大人の狭間にある危うい心と体。そんな年ごろ、あるいはそれに差しかかるもう少し幼い歳の少女たちに向けて、ルイス・キャロルも弛まず手紙を送り続けた。だが手紙を通して彼女たちに、彼は何ときめ細かい情愛を注いでいることだろうか。」

とキャロルを評価しています。これは正に『エコール』においてそうした「危うい心と体」にある少女を隔離している森という幻想的な空間に象徴的に表されていることではないでしょうか?

また次に、『エコール』では巣立っていった少女たちと入れ替わるようにまた少女が森にやってくることが暗示されています。これは、『少女への手紙』のあとがきを務めた高橋康也高橋迪の以下のような、ルイス・キャロルの少女への手紙に対する考えに符合するのではないでしょうか(p.242)(フィルムの「コマ」は漢字からカタカナに変更しています)

「……ひとつひとつの手紙はたったひとりの少女のために、ある偶然の、具体的なきっかけによって書かれた、繰り返しのきかぬ行為であった。そして生身の少女が時間の直線的な流れに浮かぶ存在であり、手紙がそういう少女にあてられた一回性の行為であることを、よくよく知っていればこそ、キャロルはつぎつぎに新しい少女友達を求め、つぎつぎに新しい手紙を書く。そうすることによって、つまり年をとり過ぎ去ってゆく少女の数を限りなく増やすことによって、ひとりの[「ひとりの」に傍点、本記事執筆者注]少女の面影を静止させることができないか。フィルムは止めようもなく廻る。しかしフィルムの各コマに、似たような人物をひとりずつ撮っておくならば、フィルムの回転は結局ひとりの人物を映し出すこととほぼひとしいのではないか。ひとつひとつの手紙は、そのようなフィルムのコマにあたる。」

この考えによると、キャロルは手紙をつぎつぎに新しい少女友達に送ることによって、一方、アザリロヴィック監督の描く『エコール』は森の中で密かに行われるバレエの稽古の上達(とそれと同時進行する心身の成長)による少女たちの入れ替わりという描写によって、少女というかけがえのない存在を二人は自分自身に/視聴者に留めさせようとしたと考えられるのではないでしょうか?つまり、キャロルも『エコール』も、表現方法は違えど内容的にはかなり近いことを伝えようとしているのではないか、ということです。

 

また、本記事において断定することなく疑問としていろいろ提示してきました。これはここで紹介した作品が多様な読みを認めているのだというぼくの意図を示すためです。また、今回は少女にまつわる話をしてきましたが、実際のところは少女だけに限ったものではなく、より普遍的な想像に根差しているのだと思います。言うなれば、自分の心にひっそりと住まい続ける危うげながらも優しい幻影、のようなものです。この幻影が今回取り上げた作品では少女だったというだけで、人はそれぞれ自分にそうした幻影を持ち合わせていると思います。本ブログでは一応、サブカル的な話題を取り上げることが多いので、サブカル的なものからいくつか例を取り上げるならば、おねショタのような関係性であったり、ショタコンの人がショタに対して抱く気持ち、といったものになるでしょうか?いや、セクシャリティにだけ該当するものではありません。「あの夏の日」など、今となっては戻ることのできない、おぼろ気で、それゆえ懐かしさを覚えるようなもの全てに当てはまるでしょう。

それゆえ、『エコール』は一見したところ「その手の趣味の者しか好かない」ような作風ですが、実際のところ、普遍的な意味を持ち合わせた意義深い作品となっているのです。